歩いて世界一周するまでの話

3年後に徒歩のみで世界一周をします。

なぜ教育なのか 〜僕の目標設定秘話〜 【後編】

こんにちは、小野トロです。

 

このブログは、3年後に歩いて世界一周の旅に出発し、

帰国後に学校を設立し、

日本の教育を改革し、行く行くはお国までも変えてしまおうぜ、

という若者の、その夢の過程を記録していくものです。

 

前回は、僕が2017年に何をしていたかについてお話しました。

2016年の1年間の休学期間を経て、

図書館に籠もって読書に耽ったという話をしました。

 

今回は、実際に何の本を読み、何を学び、それがどう今の夢に繋がったのかについて、お話ししたいと思います。

 

前回、東北や熊本、これから先起こる災害において、災害に直接的には関連のない(津波に巻き込まれて、崩れた家の下敷きになって、などの防災・減災の及ばない範囲)死者、いわゆる災害関連死を無くしたい、という思いが、熊本に行って芽生えた、という話をしました。

 

その思いはもちろん復学してからも残っていたので、と言うよりも学業よりそっち優先でした(お母さんごめんね)。

 

このような動機から、図書館で読む本は災害関連の本ばかりでした。

具体的には、孤独死孤立死、災害関連死、災害支援、ボランティア、防災、減災。

阪神淡路。新潟中越。東北。熊本。

特に孤独死に関する本は何冊も読みました。

中には災害支援をされていたかたの実録もあり、

実際に被災者が死に至るまでの詳細なレポートは、生々しく、単なる文字の羅列から想像するだけでも、涙してしまうような内容も多くありました。

 

しかし、当事者は当然もっと辛い。

耐えてページをめくり続けました。

過去に起こった孤独死について学んで、これから起こるかもしれないそれを防ぐのが目的だから。

 

読んだ本の名前や著者、詳細な内容はここでは省きますが、

 

これらの本を読んで、1つの疑問が浮かびました。

 

「これって、被災地だけの問題じゃなくね?」

 

ふと気付いたんです。

 

災害はきっかけに過ぎないことに。

 

もちろん地震や台風は恐ろしいです。

災害で直接被害に遭われて亡くなった方やご遺族の方々には不快に響くかもしれません。

ごめんなさい。

 

だけど、本当にこの日本から「孤独死」をなくそうと思ったら、

被災地だけに目を向けていては、それは不可能なのでは、と思ったのです。

 

災害はきっかけに過ぎない。

 

日本全国、どこにでも眠っている問題が、災害というトリガーによって掘り起こされただけであって、

たまたまそれが阪神淡路や新潟や東北、熊本であっただけのことなのです。

 

潜在化していた日本社会の問題を、災害が顕在化した、ということです。

 

もちろん、災害現場の最前線で、傷口に絆創膏を貼り続けることは必要です。そういった支援を続ける人をとても尊敬しています。

しかし、外科手術だけでは問題の根本的解決には至らない。

僕はこの国に内科手術を施したい、そう思っています。

放って置いても必ずまた大震災はやってくる。巨大な台風はやってくる。

防災、減災、そして事後の災害支援だけでなく、

起こった後に人々の絆やコミュニティが引き裂かれ、孤立し、亡くなっていく人の無いような社会を。

 

そして、災害だけではない。

この問題は時限爆弾です。

2050年には、日本の約4割が1人世帯になると言われています。

高齢者、若者、地方、都市部に関わらず。

誰もが1人で生きていかなければならない時代がやって来ます。

 

「異臭が漂い虫がたかり、近隣住民の苦情から大家さんが訪ねると、浴槽に腐った死体が浮いていた」

「1人暮らしではあるが、近所付き合いやサークル、周囲と相互に支え合いながら、天寿を全うする」

 

このどちらかを選ぶ時代がやって来ます。

 

つまりは、

孤立死」か「自立死」か。

 

自立とは何か、という定義については機会を譲るとして、

上記の死に方、どちらか選べと言われたら、

後者を選ぶ人がほとんどと思います。

 

では、どうすればその「自立死」を実現できるか。

それは、「自立死」できる人を育てるしかない。

その環境を整えるしかない。

 

ここで初めて、このワードが出てきます。

「教育」

 

教育が変われば人が変わる。

人が変われば社会は変わる。

 

何も僕は、自分の信念を押し付けたいわけではないし、

これが正解だ、という答えは持ち合わせていません。

自分の思想に染まった人間を大量生産したいわけではありません。

あえて言うならば、「正解なんて無い」という正解を自分の力で導き出せる人間を育てたい。

 

ただ、選んで欲しい。

選べる環境を整備したい。

全ての人が自分の人生を選べる世界に。

 

これは言葉にすると簡単ですが、途方も無いことだと思います。

きっと僕の一生涯だけでは達成できないでしょう。

あきらめています。

でも、僕は、自分1人の人生だけで達成できる夢なんてしょうもないなあと思います。

 

世代を超えて受け継がれ、いつか叶うようなそんな夢を僕は歩いています。

 

そうやって次の世代にバトンを渡していくと言う意味でも、

学校を作って教育を変え、国を、世界を変えていく、というアプローチが、

現時点の僕の中では、1番合理的で効率的なやり方だと思い、

「学校を作ろう」

と思い立ったのです。

 

まとめると、

・災害支援をし、孤立死を無くしたいと思った

・勉強し、それは被災地だけの問題じゃないと気付いた

・国、社会そのものを変えていかないといけないとの考えに至った

・人間の根本である教育から変えていく必要性を感じた

・学校をつくって教育改革をしようと決めた

 

以上が僕の目標設定に至るまでのプロセスです。

 

長くなりましたが今回はここまで。

ご拝読ありがとうございました。

 

小野トロ

 

 

 

なぜ教育なのか 〜僕の目標設定秘話〜 【前編】

こんにちは、小野トロです。

 

このブログは、3年後に歩いて世界一周の旅に出発し、

帰国後に学校を設立し、

日本の教育を改革し、行く行くはお国までも変えてしまおうぜ、

という若者の、その夢の過程を記録していくものです。

 

2014年 京都から東京まで歩き、

2016年 休学して歩いて日本一周を目指し、熊本地震、山小屋バイトを経てマインド改革

 

この記事を書いている現在が2019年なので

徐々に現在に近づいてきたわけですが、今回は2017年の僕についてお話しします。

それを通して、具体的なエピソードを交えながら、どのように現在の目標設定まで至ったかについて書いていきます。

 

2017年の正月でした。

ボランティアの受け入れ先を探すために滞在していた熊本でのことでした。

1日を終え、夕食をとりながらテレビを見ていると、

東北の震災後の被災者に密着したドキュメンタリー番組を放送していました。

内容は、震災後1、2年後より、4、5年後の方が、震災関連死が増加している

というものでした。

 

その内訳は様々でした。

被災して家屋や田畑を失い、再起を図ったものの挫折し命を絶った人。

都心に避難し、震災以前のコミュニティから切り離された状態で精神的に追い詰められ命を絶った人。

最愛の家族を亡くし、1人残され、酒浸りになり、病気を併発して亡くなった人。

 

涙し、悲しんだと共に、今もなおあの日からずっと時が止まったままの人がたくさんいて、

僕らはどうあがいても当事者にはなれないこと、支援者でしかいれないことに、

やるせなさや切なさ、悔しさを感じました。

それと同時に、近い将来に起こる可能性のある、上記のような悲劇は何とかして防ぎたい。

東北でこれ以上、熊本でこれから、そしていつどこで起きるかわからないこれからの全ての災害において、

災害に直接は関係の無い、防災や減災のカバーエリアの外にある悲劇はどうすれば無くしていけるのか。

その為に何をすればいいのか。

 

闘志に火がつきました。

 

そして迎えた2017年4月からの休学を終えて戻ってきた大学生活。

 

サークルや専攻の同期は卒業しており、講義の合間や放課後に暇を潰す相手、飲みに行く相手も極端に減りました。

これは休学・留年あるあるなんですが、必然的に図書館に籠る時間が劇的に増えます。

 

僕は、授業の合間はとりあえず図書館に行き、お気に入りの席に座り、

その日のNBAMLBのハイライトやアイドル番組を一通りチェックし、少し仮眠を取ってから、

読書に耽る。

こういった図書館ライフをほぼ通年過ごしていました。

 

元来読書は好きでしたが、圧倒的に読書量が増え、習慣化されたのはこの時期からです。

両親が本の虫で、特に母は書店勤務や図書館勤務が長く、絵本も大好きで地元の小学校に読み聞かせのボランティアをするほどで、専門的に絵本について勉強したりもしています。

そのような両親のもと育ったので、「本を読みなさい」と無理強いされるようなことはなく、

周りに常に本があったので、自然と僕も本に親しむようになりました。

なので、両親にはとても感謝しています。

天邪鬼な性格なので、きっと無理強いされていたら本は嫌いになっていたでしょう。(勉強なんかも同じで、勉強しなさいなんて一度も言われた記憶がありません)

 

少し話が逸れますが、この時期の読書量は今と比べても多かったと思います。

常に最低3冊はリュックに入っており、平行して読んでいました。

僕流の読書法は、「緊張と緩和」です。

3冊中2冊は、その時学びたいと思った専門書やビジネス書。

あとの1冊は好きな作家の小説。

難しい本で勉強し、緊張した頭を、小説で柔らかくしてあげる。

この方法は今も続けています。今は2冊になりましたが。

僕は伊坂幸太郎さんが大好きなので、この年は伊坂幸太郎全作読み切るキャンペーンをしました。

 

加えて、僕の通っていた大学の図書館が、全国でも有数の蔵書量を誇っていたことも幸いして、

僕の2017年は、読書の年になったと言っても過言ではありません。

ひたすら実地で色んな経験を積んだ2016年。

大学に戻って知識を貪り食らった2017年。

大学生5年目にして初めて、大学に入って良かったと心から思いました。

 

2017年をどう過ごしたかについて書いたところで、今回はここまで。

本当は1回で終えるつもりだった2017年ですが、まとまり切らないので前編と後編に分けます。

 

僕の人生の目標が定まった大事な年なので、しっかり話していきたいと思います。

 

それでは。

今回もご拝読ありがとうございました。

 

小野トロ

僕の内面に起こった3つの変化 その③

このブログは、3年後に歩いて世界一周の旅に出発し、

帰国後に学校を設立し、

日本の教育を改革し、行く行くはお国までも変えてしまおうぜ、

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前回までは、2016年の休学期間に、

歩いて日本一周への挑戦

山小屋での生活

熊本の震災

主にこの3つのターニングポイントを経て、

僕の内面にどういった変化が起こったかについてお話ししました。

 

その①と②を簡単にまとめると、

山小屋の特殊で過酷な環境での生活をきっかけにルーズな生活習慣を改善し、

日常生活に戻ってからも工夫を凝らし、自堕落な生活に戻らずに済んだこと。

そしてそれによって心に余裕が生まれたこと。

 

その「心の余裕」によって僕がどう変わっていったか。

今回はそのことについて話していきます。

 

結論だけ申しますと、心に余裕が生まれた結果、

「自分の生きる意味」というものを見出しました。

 

過程としては、

ルーティンワークの徹底により、

自由な時間が、恒常的に生まれる。

それによって自己対話の時間が増える。

それによって当然の疑問が生じました。

 

「自分は何のために生きているのだろうか?」

 

自分を深く知る。

「自知」の作業を、その時の僕はしていたのだと思います。

 

その問答の結果出た答えは、

 

「誰か(何か)に優しくする」ということです。

 

何か、と書いたのは、ヒトだけに優しくするのではなく、

ヒト以外の生物や物に対しても優しくしたいからです。

 

このことから、僕が心優しい善人ですよ、とアピールしたいということではありません。

 

自己対話において

「誰か(何か)に優しくする」

という心の状態が、1番気持ちの良い状態、精神衛生上心地いい状態であるという結論に辿り着いた、それだけのことです。

 

自分の生きる意味、1番の根源にあるもの、それがはっきりしました。

あとはそれに少しづつ段階を経ながら具体性を付けていく作業だけでした。

 

ヒトという生き物は、

自分の1番気持ちのいいマインドセットで、

1番気持ちのいい場所で、

1番好きな人たちといる時間に、

1番自分の好きなことをすることで、

最大限のパフォーマンスを発揮するのだと思います。

 

それらが何なのか、見極めないと、

自分が何をして生きていきたいのか、どう死んでいきたいのか、

どんな仕事を、どんな人たちとしたいのか、

その結果どんな人に笑顔になってほしいのか、

何もわからないまま生きていくことになります。

 

夢が無い、目標が無い、やりたいことがない、

と嘆く前に、しっかり自己対話して、

自分が何を好きなのか、何を大事にして生きているのか、何をして生きていきたいのか

見極めるべきだと思います。

 

目標がはっきりしてからの僕は、とても幸せです。

 

僕の生きる意味「誰か(何か)に優しくするために生きる」

このことが何故、「教育改革をして世界を変える」という僕の目標に繋がるのか

という話を、次回書きます。

次回もお楽しみに。

今回もご拝読ありがとうございました。

 

小野トロ

僕の内面に起こった3つの変化 その②

このブログは、3年後に歩いて世界一周の旅に出発し、

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日本の教育を改革し、行く行くはお国までも変えてしまおうぜ、

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前回は、2016年に僕の内面に起こった3つの変化の内の1つ目、

「ルーティンワークの徹底によって生活習慣やルーズさを克服した」話をしました。

 

今回はその結果起こった相乗効果についてお話ししたいと思います。

 

最初は「ルーズで自堕落な人間」という周囲のイメージを変えたくて始めたルーティン生活。

それが思わぬ結果を生み出したのです。

それはズバリ「心に余裕が生まれたこと」です。

 

ルーティン生活と聞くと、様々な「自分ルール」によって自分を縛り、「心の余裕」などという言葉とは縁遠いものと思われるかもしれません。

 

僕も実際このイメージはありました。

それは大きな勘違いでした。

と言うよりも、ひょっとしたら、ルーティン生活を実践して、心ががんじがらめになってしまう人もいるかもしれません。

けれどそれはきっと、その先にある目標(2016年の僕で言うと「ルーズな自分を変えること」)無しに実践しているからそうなるのだと思います。

 

実際に目標を設定して実践してみると、

縛られるどころか、全くその逆でした。

水を得た魚の如く、自由を得た気がしました。

何故なら、ルーティン生活によって、

自分の日常生活の全行程に費やす所要時間が明確になり、

「生活のスリム化」が果たされたからです。

この「生活のスリム化」によって、

 

ぼおーっとする時間

孤独な時間

自分と向き合う時間

自分と対話する時間

 

が生まれました。

このことによって、日々の様々な外部からのストレスなどによって磨耗した心が癒され、

「他のもっと大事なこと」を考えることができるようになったのです。

 

自己と他者を完璧に分ける境界線は存在しませんが、

完全に「自分事」と言い切れることは存在します。

例えば食事。睡眠。その他健康管理。金銭管理。洗濯や掃除などの家事など。

これらの「自分事」を完璧にしていれば、

心の容量を他のことに回せる。

それが僕にとってのルーティンワーク、そしてその結果もたらされた副産物でした。

そしてそれは自ずと意識的に生み出す主産物となりました。

 

僕はこの考え方を、「スマホのギガ」に例えて人に説明することがあります。

 

人の心を「ギガ」とします。

人には誰しも「心の容量」というものがあると思います。

「キャパ」と表現する人もいるでしょう。

 

月々の契約で、何ギガまで使えるかが決まっていると思います。

その数字は人によって異なると思います。

「容量」は人によって異なると思います。

決められた容量の中で、その1ヶ月を過ごすために、

画像の読み込みはWi-fi環境下でする、

家の外で動画は見ない、

などのルールを設けて、それぞれギガ数を節約しているかと思います。

契約した以上のデータ通信を行うと、自動的にギガが追加されて、課金されていく契約になっている人も多いと思います。

そうやって、足りなくなった容量を買い足していくのは、

心に例えると、自分のキャパを、半ば無理矢理広げていく作業だと思います。

しかし、そうして追加で課金していくことは、何らかの犠牲や、強引さを必要とする作業であるので、

心にも負荷がかかるものです。

そうして矢印を自分の外側に向けるのではなく、

自分の内側に向け、「家の外では動画は見ない」のと同じように、

持って生まれた自分の容量をしっかり把握し、

無理矢理広げるのではなく、

与えられたものの中で、工夫して、容量を節約して生きていくほうが、

心の健康を考えると、とても有意義で、生きづらさを軽減する1つのヒントにもなるのではないかと思います。

 

追加料金=強引にキャパを広げる

ではなく

ギガ節約=自分の持ち前の容量の中で工夫する

ほうが、

心に余裕を持って生きることができると思います。

 

少なくとも僕は、今日をそうして生きています。

 

今回はここまで。

次回は僕が、心のギガ節約をし、心に余裕を生み出した結果、

どのような発想に至り、それが現在に繋がっているかについて話していきたいと思います。

 

ご拝読ありがとうございました。

小野トロ

 

僕の内面に起こった3つの変化 その①

このブログは、3年後に歩いて世界一周の旅に出発し、

帰国後に学校を設立し、

日本の教育を改革し、行く行くはお国までも変えてしまおうぜ、

という若者の、その夢の過程を記録していくものです。

 

前回は、大学を休学して、歩いて日本一周を目指した1年の、あった出来事を書きました。

ただあった出来事を羅列しただけの、外面的な内容だった前回と打って変わって、

この1年が僕を内面的にどう変えたかについて書いていきます。

振り返れば、2019年現在の僕が追っている目標や、生きる目的の『礎』となるものはこの1年に築かれたと言えます。

わざわざ外面と内面に分けてこの1年を振り返る理由はそこにあります。

 

前置きはこれくらいにして、本題へ。

大きく変わったのは主に以下の3つです。

 

①ルーズだった私生活・生活習慣を見直し、ルーティンの徹底により向上できたこと

②①により、心に余裕が生まれ、自分の生きる目的がはっきりしたこと

③①と②の結果、短期及び中長期的な計画が見えてきたこと

 

今回のブログでは、この1つ目について書きます。

 

とにかく全てにおいてルーズ。

これは僕にとって永遠の課題でした。

棚に上げたまま放って置かれ、埃まみれになりながらも、見て見ぬ振りをしてきた問題でした。

あくまで主観でしか語れないので、「自分なりには」という注釈はつきますが、

その目の上のたんこぶを、どう取り除いていったかについて話します。

 

まずは当時の僕の状況、つまりはビフォーを紹介します。

大学の授業は出ない。

その結果単位を落とす。

友人との約束には遅刻する。

面倒な連絡は返さない。

部屋は汚い。

金銭管理できない。(これは今もそうです、マシにはなりましたが)

ざっと言うとこんな感じです。

バイトだけはちゃんと行ってました。

好きな仕事に好きな人たち、美味しい賄いがあったからです。

女性関係もちゃんとしてた、はずです(笑)

酒やギャンブルにはハマらなかったのは救いですね。

 

この状況を、変えたいと願いつつ、きっかけだけ探して何もしていませんでした。

「あいつはああいう奴だから」

という評価に悔しさすら感じないような状態でした。

 

“「明日こそきっと」って戯言ぬかして 自分を変えてくれるエピソードを ただ待ってる 木偶の坊”

 

僕の大好きなMr.Childrenの『天頂バス』の歌詞にこんな一節があります。

当時の僕はまさにこの状態でした。

 

きっかけ待ち人間だった僕にとっての転機は、

旅の費用の充填のために、山小屋で働いている時に訪れました。

結果的には、繁忙期真っ只中に体調を崩して離脱し、多大に迷惑をかけることになったのですが、

個人的には大きな転機となりました。

その理由としては、

標高2000メートルを超える過酷な環境で、娯楽や誘惑の少ない環境であったこと。

そして1日の生活リズムが一定で、タイムスケジュールに沿って働き、暮らしたこと。

この2つが挙げられます。

電波もほぼ届かず、

飲みに行く場所も無い中で、

空き時間には本や漫画を読んだり、筋トレやストレッチをして時間を潰す毎日でした。

起床時間、朝食を作る時間、お客さんの部屋掃除、トイレ掃除、賄いの時間、昼寝の時間、お茶の時間、チェックインの時間、夕食の仕込み、夕食の配膳、片付け、消灯、ガスと電気の管理など、

全ての作業において時間が決まっていました。

 

そんな日々を送る中でふと思ったのです。

「これって、ルーズな自分を変えるチャンスじゃね?」と。

山の上での、整った、健康的な生活習慣を完全に自分のモノにして、

下界に下りてもそのまま持続することができれば、

積年の課題を克服することができるのではないか…と。

 

その為には、他のバイトの人と同じではダメだ。それ以上に自分の行動にルールを作って、

ルーティンワークを決めて、1つ1つの行動を変えていかなければ。

そう思い、仕事として決められていた以上のものを考え、実行しました。

 

朝、厨房に集合する決められた時間より15分前に厨房に来て、

朝のモチベーションを高めるプレイリストの音楽を聞いて始業を迎える。

さらにその15分前に起きて、ストレッチをしてから厨房へ向かう。

昼休憩時に筋トレをする。

寝る前、15分ストレッチ、15分読書をする。

日記を書いて、お客さんの消灯後1時間以内には必ず寝る。

ストレッチプレイリスト、おやすみプレイリストも作る。

使うトイレの場所、履くパンツの色、うがいの回数。

確実に意味の無いルールまで決めて実行しました。

 

このように、与えられたルール以上のことをやって、

普段の環境に戻って、大学に戻っても、大丈夫なように、実践し続けることができるように、

特殊な環境だからこそできていたんだ、とならないために、

多少大袈裟でも良いと思い、実行しました。

山小屋にいたのは、6、7月。離脱した8月を除き、9、10月、11月初旬の小屋閉めまでの期間。

 

特殊な環境で働くだけでも充分トレーニングになるであろうところを、

自分で勝手に上乗せして更なるトレーニングを課した期間でした。

 

この期間の「重み」があったからこそ、大学に戻ってからも、

1限の時はこの時間に起きて何時に顔を洗ってご飯を食べ、何時に出て何時の電車に乗り、

大学ではこう過ごし、何時の電車で帰って夕食を食べてお風呂に入り、この時間はフリー、読書の時間、ストレッチの時間、日記の時間、次の日は2限だから自分の適正睡眠時間から逆算して就寝時間はこれ、といったように

各曜日ごとに詳細に決めて、画用紙に書いて部屋の壁に貼って毎日を過ごしました。

 

この「やり過ぎ期間」のおかげで、

今は人並みに過ごすことはできている、と思います。

こればっかりは自己評価だけでは完結できない話で、印象論なので、

2016年以前で付き合いの途切れている人はルーズなままの印象だろうし、

「そんなん言うてるけどお前変わってへんやん」と言う人もいるだろうし、

「あいつ変わったよな」と思っている人もいるでしょう。

これ以降に出会った人は、僕がルーズであった事実に驚くかもしれません。

そもそも僕のことをルーズだと思ったことがない人もいるでしょう。

 

ただ、これらの評価はもはや僕にとってはどうでもいいことです。

確かに取り組むきっかけは「ルーズなイメージを抱かれている」という他者からの評価を変えたかったのだと思います。

 

しかし、取り組んでみたところ、思わぬ結果が生まれました。

それについては、次回の記事で触れたいと思います。

 

今回は、2016年に僕に起こったっ3つの変化、その①について話しました。

次回は、その①の変化によって、予想外に、今考えれば必然的に起こった2つ目の変化について話したいと思います。

 

それではまた次回。

ご拝読ありがとうございました。

小野トロ

 

 

大学を休学して日本を歩いた話 2

こんにちは、小野トロです。

 

このブログは、3年後に歩いて世界一周の旅に出発し、

帰国後に学校を設立し、

日本の教育を改革し、行く行くはお国までも変えてしまおうぜ、

という若者の、その夢の過程を記録していくものです。

 

前回は、大学を1年休学して、47都道府県を徒歩のみで踏破する旅に出発した、

出発してからわずか2週間、京都から奈良、和歌山まで至った話をしました。

 

そして前回の最後に、2016年4月14日に、この旅の展開が大きく変わったという話をしましたが、

それは皆さんもご存知の通り、熊本で起こった震災です。

 

美談と捉えられたく無いので事実だけ話します。

 

幼少期に熊本に住んでいたこと。

休学の身で実質フリーに動けること。

大学でボランティアサークルに属していたため災害ボランティア経験があること。

 

主にこの3つの理由から、出発早々ではありますが、旅を中断して一旦熊本へ。

 

ちなみに、震災前の1年の予定は、

4、5月歩く

6〜8山小屋で住み込みバイトで旅費の補填

9〜歩く

というものだったのですが、

 

いくらフリーだからとは言えジリ貧で滞在を続けることもできないので、

予定通り山小屋へ行くことに。

 

その前の期間には、滋賀、福井、石川を歩きました。

 

この時点で歩いた都道府県は6。。。

 

一旦予定が変わったため、ここでスッパリ47都道府県全てを歩くことは諦めました。

 

予定を組み直し、

11月まで山で働き、

12月は充電期間プラス年明け以降の計画を立てて準備をし消化。(つまりはほぼ遊んでました)

 

1月から休学期間終了の3月までの計画は、

年始 ボランティア受け入れ先を見つけにバスで熊本へ

1月中旬 一旦関西に帰ってから歩いて熊本へ

2、3月 熊本に滞在してボランティア

というものでした。

 

年始は10年前に住んでいた時の知り合いなどのツテを辿ったり、

ネットやFacebookで震災復興関係のNPOを探して一軒ずつ電話してみたりと、

お手伝いさせていただけるところを探しました。

 

約1週間の滞在で、幸い親切にしていただき、仕事もくださる団体が見つかり、

2、3月の滞在に向けて短期でアパートも借り、

一旦関西へ帰りました。

 

そして歩いて熊本へ。

なぜわざわざ一旦帰って歩いたかと言うと、

やっぱり歩くために学校を休んだ1年なので、単純に歩きたかった。それだけです。

 

約2週間、西日本とは言え、真冬の旅は過酷でした。

中国地方経由のルートと、

四国経由のルートと悩みましたが、

四国経由を選びました。

 

正直この旅はあまり思い出がありません。

 

暖かくて降水や降雪は少ないという四国への勝手なイメージがあったのに

豪雪で凍えながら歩いたこと。

そのせいでゲストハウスで高熱を出したこと。

病み上がりのうどんが最高だったこと。

やたらとお遍路さんに間違えられたこと(途中から説明するのが面倒になり「お遍路さんですか?」と聞かれたら「はい、そうです。」と言っていました)。

道後温泉が良かったこと。

フェリーは楽しかったこと。

福岡の治安のよろしくない地域を知らずに歩いたこと。

八女の茶畑が絶景だったこと。

九州のうどんは柔らかめで、コシがあるほうが良いなと思ったこと。

ゴールの熊本で、アパートの契約開始日より早く着いてしまい、

宿も確保していなかったため、

せっかくのゴールなのにネットカフェに泊まったこと。

 

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意外とありましたね、思い出。

 

さて、熊本に着いてからの約2ヶ月間は

平日3、4日ほどは震災復興支援をしているNPOで仕事をもらい(お給料は貰っていました)

それ以外はその団体の方に紹介していただいたお茶農家さんのところへ行き、

主に畑作業、時々催事やイベントのお手伝いなどをする

という日々を過ごしました。

 

大学を休学し、47都道府県踏破を目指したこの年の話は、以上になります。

 

この1年は、今の僕を築く上で、大きな礎となりました。

当初の予定が天災によって変わったこと。

それによって予想外の色んな素敵な出会いがあったこと。

標高2000m以上という環境で過ごした数ヶ月間。

色んなできごとや出会い、環境の影響で

僕の人生観に大きな変化があったこと。

それによって今後の、そして今目指している、進んでいる道、

進むべきと思う道が見つかったこと。

 

本当に大きなターニングポイントになった1年でした。

 

このことについては、今回は話さずに、

また次回に書きたいと思います。

言わば、「大学を休学して日本を歩いた話」の1と2は、

ただ起きたこと、したことを話しただけで、

次回はこの1年で起こった僕の内面の変化について語っていきたいと思います。

 

それでは、今回もご拝読いただきありがとうございました。

 

小野トロ

大学を休学して日本を歩いた話 1

こんにちは、小野トロです。

更新が不定期になってしまい、申し訳ないです。

 

このブログは、3年後に歩いて世界一周の旅に出発し、

帰国後に学校を設立し、

日本の教育を改革し、行く行くはお国までも変えてしまおうぜ、

という若者の、その夢の過程を記録していくものです。

 

さて、前回は、京都から東京まで歩いて行った話をしましたが、

今回もタイトルの通り、またまた徒歩旅のお話をします。

 

京都から東京の際は、夏休みを利用しましたが、

1度歩き旅の魅力に取り憑かれてしまった僕は、長期休みを利用した旅では満足できなくなり、

「47都道府県を徒歩旅で制覇」

を目標に大学を1年休学することを決断します。

 

結果だけ先に言いますと、1年で47都道府県制覇は、叶いませんでした。

これから時系列で書いていきますので、その理由については後述することにします。

 

旅の序盤、つまり4月は実家のある京都からひたすら南下していきました。

京都市から宇治を経由し、奈良に入り、橿原市から明日香村に寄って観光を楽しみました。

 

明日香村はこの度の序盤で印象に残った場所の1つで、

最近は明日香村近辺、「飛鳥・藤原」を世界遺産に、という動きが盛んになっており、

観光地としても魅力的な村です。

その特徴が、なんと言っても飛鳥時代にタイムスリップしたかのような穏やかな風景と空気。

そして聖徳太子蘇我氏についても知ることのできるお寺や史跡、古墳や壁画など。

風景と数々の文化財を、1日村を歩けば体感することができます。

 

さらに奈良を南下していき、

吉野では前日の大雨でSold Outした桜に肩を落とし、

黒滝村を通過し、

天川村へ。

ここでも素敵な出会いがありました。

奈良南部はとにかく山ばかりの険しい道のりで、人と出会うことも無く、辛い道のりでした。

辺りにお店や野宿できるような場所も見当たらず、途方に暮れていたところ、

後ろから軽トラが。

ヒッチハイクをしないことはルールとして決めていたので、

こちらからはアクションは起こさなかったのですが、

山道を人が歩いている光景は珍しかったからか、声をかけてくださり、

せっかくなので乗せていただくことに。

この方が天川村まで連れて行ってくださり、村の中を案内してくれたり、

数少ない食事のとれるお店の場所や、大峰山の話や役行者さんの話、修行の話や女人禁制の理由、鍾乳洞や温泉などの観光の情報など、色んな話をしてくださり、最後には村唯一の宿まで送ってくださいました。

 

そして、宿で荷物を整理し、教えてもらった温泉に向かうと、案内してくれた本人にすぐ再会。

その後また車で送ってくださいました。

 

ここで気になったのが、村で助手席に乗っていると、運転席のその人が、通り過ぎるほぼ全ての人に挨拶されたり、話しかけられしばらくそのまま世間話をするのです。

田舎ではこれが当たり前なのだろうか、とも思いましたが、

それにしても声をかけてくる人が多く、とにかくこの村で顔の広い方なんだな、という印象でした。

 

その人は次の日の目的地を僕に聞くと、じゃあ途中までまた送ってってあげるわ、と言ってくださり、

和歌山県橋本市まで送ってもらうことに。

 

橋本まで送ってもらい、いよいよ別れの時。

最後に名刺をくださり、

「また天川に来ることがあったら連絡して」

と言ってくれました。

礼を言い、別れてから、もう一度名刺を見ると、

「議員」の肩書きが、、、

どおりで顔が広いわけだ。。。

たまたま山道で通りかかって声をかけてくれて色々教えてくださった親切な方が

議員さんだなんて、、、

慌てて無礼なことはしてないかな、などと考えましたが、別れた後なので、時すでに遅し。

 

そんなことよりも、

議員さんとは自分から言わず、高圧的な態度もなく、腰が低くそれでいて堂々とした

こんな月並みな表現では申し訳ないくらいに、

とても素晴らしい方でした。

 

あれから天川村には行っていないのですが、必ずまた帰りたい場所の1つです。

 

今回の話はここまで。

実は天川村に訪れたこの日。

僕の旅、そしてこの1年。

そしてその後の数年間を変えることになったと言っても過言では無いことが起こっていました。

 

話は前後しますが、次回はその、天川村に宿泊したその日に起こったことと

それからの僕の選択と取った行動についてお話ししたいと思います。

 

その日の日付は2016年4月14日。

 

ではまた次回。

ご拝読ありがとうございました。

 

小野トロ